昭和46年11月19日 朝の御理解



 御理解 第4節 
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられる様になった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言う事に叛かぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる」。

 天地金乃神様の、おかげを受けておると云う事は、金光大神御出現の前々から、おかげを頂いておるのです。いわば、天地開闢以来と云う事でしょうかね。けれどもそれを知らなかったと云う事です。だからそれを、それを金光大神は、私共に分からせて下さったね。天地の親神様のおかげを受けずして、私共が立ち行く事は出けんのですけれども。ね、それをそうだと、分からせて下さったのが金光大神で、天地金乃神様の、おかげを分からせて下さった。ね、
 其処から天地金乃神様のご御徳に対して、神恩奉謝の生活が成される事が出来る様になった。金光大神はその事を教えて下さった。同時に、その天地金乃神様のお心と云う物を、悟られ、またはお知らせを受けられて。ね、天地の親神様のおかげを特に頂く為にはこう云う心の状態、こういう生き方にならなければならないよと、また教えて下さった。それが御教えです。天地金乃神様のおかげをです、ね、所謂る信者氏子とこう教えて下さる、信心をさせて、お道の信心をさせて頂く者を、ね。
 氏子の中の氏子と云う様に見せて下さる。そして、天地金乃神様のお心を対しての人間の生活と云う物が、ね。人間最高の幸せ、幸福を得る事が出来ると云う事を金光大神は教えて下さった。ね、そこで金光大神の言う事に背かぬ様にと言うのは。ね、金光大神の言う、言われる事を背いたのであっては。だから、金光様の御信心を頂いておっても、いわゆる特別のそうしたおかげを受けるとか、おかげに触れる事は出来ないのであります。よく、生きた信心とか、ね、死んだ信心とかと申します。ね。
 よく、合楽に初めて教えを頂かれた方達が言われる事にね、神様が生き生きとして御座るとか、神様が躍動して御座ると言われますですね。神様が生きて御座る。そう云う物を感じさせるものが、いわば合楽のお広前にはあると言う訳である。ね。ある先生が、初めて合楽におかげを頂いて、合楽の模様を書いておられるお書物の中にもあります。神徳が満ち溢れておるお広前だと言うておられます。ね。それは、何処にだって神様の御神徳と云う物は、ね、お広前だけではありません。ね。
 もうそれこそ世界中の隅々にまで御神徳と云う物は溢れておるのである。けれどもその御神徳を、其処に感じさせると云う事。そう云う場合神様が生きて御座ると、こう言う訳です。ね。言うなら神様がもう死にかかって御座る、神様がもう死んで御座る、枯れて御座る。そう云う様な感じしか受ける事の出来ない、例えばお広前が例えばあるとするならです。それはどう言う所にどう云う様な違いがあるからであろうか。
 いわば私が今日、ね、金光大神の言う事に背かぬ様に良く守ってと云う事が、出けているか、でけていないかで、に決まると思うです。ね。生きた信心と、死んだ信心とは、そう云う事です。ね、言うならば教祖の神様の教えて下さる事を、例えば背かぬ様にです守っておっても、信じて守っていなかったら大した事はないです。ね。金光大神が言われる事をです、ね、神の一言として、それを信じて守っておる所に、生きたものと、生きたものではないものとの相違があるのです。
 昨日、信徒会から発行が出ております、あいよかけよと云う小さい雑誌、小冊子が昨日頂きました。それを見せて頂いておる中に、ある方が書いておられます中にも、いわゆる共鳴した此処の所実際はみんなが、分かるのは分かっておるんだけれども、橋本と云う方が書いておられるですね。是からの後の信奉者についてと言った様な、で話しておられます中にですね。例えば三代金光様でもお道の信心の一番大切な所は、教祖様が教えられた事を、一つ一つ身に付けて行く事でありますと仰っておられますね。
 身につけて行くと云う事は、ね、信じてそれを頂いて行くと云う事だと思います。この橋本と云う方も言っております。教祖様の御教えをですね、例いそうだろうと云う様なね、事ではならんと。そうだと断言して行かなければいけないと、云う事を言っておられます。私はそう思います、そうだろうと思いますと、言葉は言うけれどもそう云う事では、いわゆる今日の御理解から言うと生きた神様を現す事は出来ないと。
 そうだと信ずる。そしてそれを守って行くと言う所に、生きた神様を生き行きとして其処に、現しもする事が出来るのです「金光大神の言う事に背かぬ様に、よく守って信心する」。金光大神の言う事を、信じて疑わず。そして、よく守って信心すると云う事になるのです。例えばね、生き生きとした例えば、おかげを受けておる人。生き生きとしたお広前の御比礼を頂いておる教会はね、教祖様の教えて下さる事をです、ね。
 全部が全部じゃなくてもです、ね、確かに、断言しうるだけの教祖様への打ち込みと言うか、信じ方が出けておる教会です。もう、是は絶対そうです。私のお話の中には何時も、そう云う事が出てくる、絶対そうです、間違いありません。そう云う様な表現をする。是は、教祖様を信じておるから言えれるのです。この橋本と云う方もそう云う事を言っておりますですね。断言が出来なければ駄目だと。
 教祖様の仰る事が、そうだと信じれれる。しかも、それが守られる。其処にです、生きたお広前へ、死んだお広前へ。死んだ信心、生きた信心という事が言えるのです。此処でもそうです。親先生が言われた一言は、ね、いわば神の一言として頂けれる様な、稽古が段々出けて行きよる事が、合楽の値打ちだと思います。ね、即、金光大神のそれをお言葉として受ける。
 それが、例えば尚且つおかげが成就しないとするならばね、金光大神が教えて下さる事を、親先生が仰っておられる事は間違いが無い、寸分の間違いが無いのだけれども、こちらの受け方が、其処に寸分の間違いがあるからこそ、寸分の間違いになるんだと云う頂き方なんですね。其処からね、生きたものが生まれて来るです。絶対のものとして。其処を頂いて行くと云う事。教祖様はこう教えておられるけれども、親先生はああ仰るけれどもと。けれども、を付けたのでは、もうそれは半死半生の状態です。ね。
 「金光大神の言う事に背かぬ様に」と云うのは、それを絶対信を持って頂き、守って行くと云う事です。ね。其処に初めてです、金光大神が教えられた事。いわば金光大神がこの世に出現なさったおかげでと言うのは、其処から先です、頂かれるのは。今日、私御神前に出らせて頂きましたらね、生きておる人間が、此処に三角っきんごたっとば、あけとると、もうその通り生きとると。もう、あれは死んだ時にこうしますよね、三角きんごつ、こう付けるでしょう。
 どう云う事であろうかて私が思いよった。いわゆる、生きた死人と云う事です、でしょうね。ね。生きとるけれども、死んどるち言うです。五体の、例えば確かに生きとるです、これは。けれども、心が死んどる。信心は死んどる、と云う意味だろうと思うておりましたら、此処2~3日前でしたか。まあ1日2日前にもこの御理解4節を頂きましたよね。それを、また今日もこの御理解4節を頂くんです。
 だから、どう云う事。そんなに毎日、毎日御理解4節ばっかりじゃ。私も説き様が無いぐらいに思うんですけれども、そんなら今日頂いた事から、私はヒントを得てお話をしておる事は、金光大神の言う事に背かぬ様に、金光大神の言う事に背いておるならばです。または信じてそれを頂いていないならばです、それはもう、ね、生きとるけれども死んどる様なもんだと云う事です。
 金光教の信心すべてが生きとると云う様な事は言えない。ね、豊やかな心によって、生きた金光教と云う事が言える、生きた比礼をまた現す事が出けるのである。ね。生きながら死んどる。ね、金光大神の言う事に、だから金光大神は、こう言うておられるから、そうだろうと思いますと。そうだろうと言う時にはもう、やっぱ重態ですね。そうだと、それが言い得る信心を、いわゆる、この橋本さんの言葉を借りると、断言出ける信心でなからなければ駄目だと。今の金光教のその、断言し得る人が少なくなった。
 だからその、断言をすると云う事は、聞き様では非常にその、慢心に聞こえる時があるですね。例えば先日も田主丸地区での{岩尾さん?}のお話を又聞きに聞かせて頂いたんですけれども。もう断言しておられますね。そう言う所は、ある意味では、非難を押さえなさる様な事があるか、と云う事になりますけれども。だからこそ、ああいう生き生きとしたおかげを受けておられるのです。もう、それを信じて疑うておられない。
 そげなこっちゃ、もう駄目とこう云う風に言われる。ね。其処にですね、例えば金光大神の言われる事が絶対なものとして頂いても、おかげが絶対になって来ないならば、こちらの方に、いわばそれだけの隙があるんだと云う事をです、分からせて頂いて。其処ん所を精進して行かなきゃいけません。また、そのものは絶対のもの、動きはしない。的がね、自分に例えば愈々こうやって行った、所が的が動いたから当たらなかったと云う様な物ではなくて、的と云う物は絶対に動かない物なんだと。
 ただ、こちらの弓を引く技術が間違って、的を反れただけの事なんだ。ね、それをどう云う事かと言うと、信ずると言う中にです、ね、その芯が少しこちらの方が緩んでおるのである。いわゆるそれがけれどもである。先生はああ仰るけれども、金光大神はこう教えておられるけれども、と思いますぐらいな事ではね。金光大神はこう教えておられるから、こうだと断言出けれる所まで、お互いの信心が進んで参ります所から、ね、おかげを頂かせて貰わなければならない。
 まさかの折には天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやる。それを例えば信ずる事が出けれる力を養うておかなければ、まさかの時に金光大神すら忘れる。金光大神助けてくれいと言えばおかげを授けてやると仰せられるおかげをですね。私共が生き生きとして、まさかの時だけではない、常平生の中に頂き、それを現して行く所のおかげ。其処ん所を分からせて頂く時初めてね。神からも氏子からも双方からの恩人は此の方金光大神と云う事になるのじゃないでしょうか。
 金光大神が言われる事は方にね。断言出来ない、だろうと言う様な程度にしか頂けていなかったらね。神からも氏子からも、双方からの恩人は此の方金光大神と仰る、金光大神をそう云う大恩人として頂く事は出けない。 それが頂けて、生き生きと其処に御比礼を立てて行く、現して行く事が出けて、初めて金光大神様あって私がある、私共があるので御座いますと云う事になり、天地金乃神様もです、金光大神のおかげで良うおかげを受けてくれたと云う事に成るのである。ね。
 今日は金光大神の言う事に背かぬ様に良く守ってと云う事を、金光大神の言われる事を信じて背かぬ様にと言う所からです、ね、生き生きとした、比礼が生まれ、比礼が立つと。生きた信心と、死んだ信心と言う違いと言うのは、金光大神の言われる事を信じて、それを背かぬように働いて行くか、ね、だれをば頂いて行くか、それを疑うて掛かるかと云う事にあるのであります。所謂る金光大神の、例えばこの御教えの中にでも、もう本当にお粗末にされとる御教えが沢山ありますね。
 金光教、この例えば「御地内をみだりに汚すなよ」、なんて云う様な事はもうあんまり言われん様になりましたね。金光大神様が「御地内をみだりに汚すな」と仰るから、ね、それを信じて私共がそれを実行すると。 教典を頂きますと、其処は大変有り難く頂けたり、または頂かれなかったりしておる所が沢山あります。私共の場合でも、厳密に言うと、まあ沢山あります。それを、三大金光様のお言葉を借りるなら、一つ一つを身に付けて行くと、こう言う。
 一つ一つ成る程教祖様が、一言半言でも、嘘を仰ってはいないなあと。私は良くその事を申しますね。教祖様が嘘を言っておられるとは思われんと、こう言うのです。だから守る。ね。女が菜園に出て、菜を抜く時、ね、大地を拝む様な心あらば当たる事ないと、こう言う。それを見て食する時に神様頂きますという心あらば、おかげになるとこう教えておられる。ね、ですから私共がです、私は其処ん所を、いわば信じて疑わないから、神様頂きますと言う心あらばと云う事。
 又はそれを頂きますと云う、是を例えば食べ物だけじゃない、野菜だけじゃない、事柄の上にでもです、御事柄として、それを頂きますと云う心で頂くと云う事になるからおかげになる。それを信じておるから、教祖様が嘘を仰るとは思われないと、それを信じるから、いわば御事柄という事になって来たのです。ね。成り行きその物が天地金乃神様の、ね、御働き。成り行きを大切にせよと。成り行きその物が神様の御働きであると信じておるから、その成り行きその物を有り難く頂いて行くのである。
 其処を信じて、それを背かぬように守って行くと云う事からです、生きた働きが生まれて来るのです。今日其処ん所を良うく一つ、私が今日お知らせに頂いた。自分の信心は、成る程自分は生きとる。無事お生かしのおかげを頂いておる。けれども、ね、三角っきん此処にはめとる様な信心じゃなかろうかと、一つ思うて見て。ね、それでは半分は生きて、半分は死んどる様な信心。ね、
 いわゆる生きた比礼、生きた神様の働きに触れる事は出来ないと。金光大神の言われる事に背かぬ様に良く守ってと。ただそれを、ね、信じずして守った所でです、それは大した生きた働きにはなって来ない。それを信じて疑わず、ね。そしてその上良く守って背かぬ様にして行くと言う所からです、ね。生きたおかげが頂かれる、ね。いわゆる信心が躍動して来る。ね、
 心が弾んでくる、そう言う信心を、私は生きた信心だと思う。ね。そう云う生きた信心をです、ね、取り継いで下さって、教えて下さったからこそ、金光大神様、有難う御座いますと云う事になる常日頃は。金光大神様、貴方あってこそ、こう云う生きたおかげを頂けれる様になりました、と云う事が分かって後にです、まさかの時の金光大神でなからなければおかげにはならんと。
 其処を信じずして、分からずして、日頃はそれを現す事が出来ずしておって、まさかの時に金光大神様、金光大神様を千編称えたって同じです。ね。常日頃から此処ん所を、ね、段々信じさせて頂いて、背かぬ様に良く守ってと云う事にならなきゃ、初めて金光大神の、は私共の大恩人であると云う事が分かる。金光大神の仰せられた事を信じて疑わずに守った所から、天地金乃神様のおかげが受けられる様になった、と云う事になる。おかげを受けられる。
 そこから天地金乃神様も金光大神へお礼を言うて下さる。私共も金光大神にお礼が言えれると云う事になるのじゃないでしょうかね。成る程合楽の信心がです、ね、例えて言うならばまあ生きておる信心と致しましてです。ね。その合楽の信心の生きた信心を、私共が頂いておるその頂いておる私共がです、果たしてどの程度に神様を信じて背かんで修行の上に現しておるかと云う事を、もう一偏厳密に反省させて頂いてです。ね、より生き生きとした神様を現して行くおかげを頂きたいと思いますね。
   どうぞ。